能登で本格的なキリコ祭りが始まったのか、夏や秋の祭礼に使われるようになったのはいつごろから なのかは不明です。神社関係の記録ではキリコについてほとんど記載されていません。
おそらくキリコはあくまでも氏子衆が神輿のお供をし、奉仕して担ぎ出す性質のものであり、主体は町民側にあったため文字としての記録が少なかったと思われます。

最初にキリコが登場するのは正保3年(1647年)輪島・住吉神社の祭礼定書には神輿のお供をするキリコの事や他地域から祭り見物をする人たちで賑わう様子が書かれています。ただし、この頃は現在のキリコの原型と言われる「笹キリコ」をさしているようです。

日本海側に連なる灯籠群
1800年ごろを境に、能登のキリコは急速に巨大化して行きますが、時を同じくして青森のねぶた祭り、秋田の竿灯祭なども同様の傾向が見られたと言います。 これは頻繁に行き来する北前船の影響で、絶えず情報と文化が伝播していた様子が想像されます。
形状の違いはありますが、北陸から東北にかけて、日本海沿岸の灯籠行事が盛んなのも、このような背景によるものかもしれません。

〜巨大灯籠の祭り〜
富山県魚津・たてもん祭り、福野・小矢部の夜高祭り、高岡市・伏木曳山祭り、
新潟県直江津の祇園祭り、新潟市七夕祭り、佐渡一宮弥彦神社の灯籠神事、
秋田竿燈まつり、能代ねぶ流し、
弘前ねぷたまつり、青森ねぶた祭……
笹キリコは4〜5メートルほどの笹竹の上部に、高さ45センチ、幅30センチ、厚さ15センチの角型の小さな行灯(角型灯籠)をつけたもので、各自が一人で持ち歩きます。(現在も輪島大祭で、子供たち が持ち歩くキリコとして残っています)やがてこの笹キリコを大きくし、数名で担ぐレンガク(田楽がなまったものか?)と呼ばれる大きな直方体のキリコが登場します。(今も富来町の八朔祭りや酒見祭りで今も見られます)和紙には青龍・白虎・朱雀・玄武などの文字が描かれただけのシンプルなもので、装飾はありません。

文化5年(1808年)の町方規定の中で現在のキリコと考えられる記録が見られます。ちょうどこの頃は北前船が活躍し、港町であった輪島やその周辺は経済的基盤が強固になった時期でもあり、能登キリコも巨大化、装飾による風流化が加速したのではないかと思われます。
文化8年(1811年)の内浦では狂歌と鳥羽絵が描かれた、高さ11メートルものキリコが太鼓・笛・鉦(かね)の囃子で練り歩き、老若男女の歓心を得たようです。

大きさや豪華さを各地で競い合ったキリコも、電気の普及による電線の影響で明治末期をピークに、
徐々に小型化され、現在の大きさに至っています。


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